男は2021年の岩にしゃがみこみ、長谷部の小舟が自分の前に流れてきた頃を見計らって、ずいと顔を近づけてきました。
目を見開きながらも、長谷部は持ち前の瞬発力でのけぞって避けようとしましたが、目にも止まらぬ速さで男の片足が舟縁へ伸びてきて、行く手を阻まれてしまいました。
睨み付ける長谷部に、にいと不気味な笑顔が静かに告げました。
「もう死んでいるのと同じさ」
長谷部はぞっとして男の手をはねのけました。
その瞬間、眼の前から男の姿が掻き消えます。長谷部が身構えた瞬間、
「残念、こっちなんだよな」
死角から銀色の刃がにゅっと飛び出しました。
その切っ先を紙一重でかわしたものの、長谷部は体勢を崩し、勢いよく後ろへ倒れ込みました。
「大丈夫かい」
ふわりと肩を包まれ、長谷部はほっとして小さく息をつきました。
燭台切が抱き留めてくれたのです。礼を言いましたが、黄金の瞳は無言のまま、背後の男の一挙一動を見逃さぬようにぎらりと睨みつけていました。
男は岩の上に立ち、抜き身の刃を提げたまま真顔でこちらを見下ろしています。
「僕らは死んでいないよ。その墓石は必要ない」
「ふうん? どうやら自覚がないらしい。ま、想像してた範疇だな。死者がごねるのはいつものことさ」
すらりと長い太刀が月光を浴びてきらめきます。
長谷部は眉根を寄せ、鯉口を切りました。その瞬間、燭台切が長谷部の背に囁いてきました。
「長谷部くん、君のカバンを出して」
長谷部は思わず目を見張りました。その表情の変化に、対峙する男が片眉を上げます。
「さっきからずっと胸を押さえているだろう。そこには、君のカバンがあるんだよね?」
どくん、どくんと鼓動が大きくなってゆきます。長谷部はまともに燭台切の目を見られませんでした。
「町を去ろうとするたびに、カバンもないのに移動できるわけがない。君は、自分のカバンでずっと時間遡行を繰り返していたんだろう?」
「……いつ気づいた」
長谷部が絞り出した小さな声の後、一拍おいて、優しい声音が響きました。
「最初からだよ」
32.